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第3話 七年目の熱帯夜

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-09-17 17:16:30

 大柄な彼の体重を支えきれるはずもなく、私たちはもつれ合うようにして部屋の奥、分厚い絨毯の上へと倒れ込んだ。

 ドスッ、という鈍い衝撃が背中を打つ。

「……っ、大丈夫ですか」

 声をかけても返事はない。ドレスの生地越しに伝わってくる彼の鼓動が、あまりにも速く、不規則に打っている。

 スーツの背中に腕を回すと、高級な布地が彼の汗でぐっしょりと湿り気を帯びていた。

 首筋に埋もれるように倒れ込んだ彼の顔から、燃えるような吐息が絶え間なく吹きかかってくる。シトラスの香水と、汗と、微かなアルコール。

 やはり、ただの酔いではない。異常な熱だ。

「しっかりしてください……っ」

 どうにか身体をずらし、彼の頭を絨毯に下ろす。ネクタイを完全に外し、シャツのボタンをいくつか開けて風を通した。

 近くにあったキャビネットから清潔なリネンタオルを見つけ出し、洗面台の水で濡らして彼の額の汗を拭う。

 苦しげに眉をひそめながら、彼は時折、小さく呻き声を上げた。

 その顔を見つめながら、ひたすら冷たいタオルを当て続ける。

 一時間。あるいは、もっと経っただろうか。

 壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、静かな部屋に響き続けていた。

 やがて、火のようだった彼の体温が少しずつ下がり、荒かった呼吸が静かなものへと変わっていく。

 不意に、掠れた声が名前を呼んだ。

 ハッとして顔を上げると、色素の薄い瞳が、静かに私を見つめ返していた。

 先ほどまでの焦点の合わない濁りは消え、受け答えのできる理知的な光が戻っている。少なくとも、さっきまでのように意識が揺らいだ状態ではなさそうだった。

「気がつきましたか……? 気分は」

「……ああ。最悪だが、頭ははっきりしている」

 彼はゆっくりと上体を起こし、乱れたシャツの胸元を片手で押さえた。

 そして、私の顔をじっと見つめる。

「どうして帰らなかった。……俺がどんな状態だったか、わかっていたはずだ」

 その声は低く、自分自身を責めるような響きを帯びていた。

「放っておけません。それに……帰りたくなかったから」

 素直な言葉が口をついて出た。

 彼の瞳が、微かに揺れる。

「明日には、ここを発つ。君に触れる資格なんて、俺にはない」

 明日にはいなくなる。その言葉に、握りかけた手を一度引いた。今ここで気持ちを告げても、遠くへ行く彼を引き止められるわけではない。

 それでも、何も言わずに見送れば、私はまた兄の隣で笑うだけの妹に戻ってしまう。庭で呼ばれた名前も、この人の目が揺れたことも、自分の思い込みだったと片づけて。

 明日が怖くないわけではなかった。好きだと伝えないまま終わる方が、今は怖かった。

「明日、行ってしまうことは分かっています。でも、私……ずっと、あなたが好きでした」

 震える手を伸ばし、彼のシャツの袖をきゅっと握りしめる。

 その瞬間、玲司の呼吸が変わった。私の袖を見つめていた視線が上がり、さっきまでの拒絶が、その顔から消えた。

「……結」

 何度も、確かめるように名前を呼ばれる。

 ただそれだけで、目の前が滲み、涙がこぼれそうになった。

 彼の手がゆっくりと伸びてきて、私の髪に触れる。

 指先が、綺麗に結い上げられた髪の中から、一本のピンを探し当てた。

 彼がずっと持っていた、あの星型のヘアピン。

 カチャリ、と小さな金属音がしてピンが外されると同時に、まとめていた髪がふわりと肩に崩れ落ちた。

「……ずっと、君だけを」

 途切れ途切れの囁きとともに、彼の大きな掌が私の頬を包み込む。

 さっきまでの異常な熱とは違う、彼自身の確かな体温。

 優しく、けれどもう二度と離さないと宣言するかのような、深く甘い口づけが降ってきた。

 目を閉じる。

 彼に触れられているという事実が、ただひたすらに幸福だった。

 彼の指先が、ドレスの背中にあるジッパーをゆっくりと引き下ろす。ジリジリという金属音が、静寂に満ちた部屋にやけに大きく響いた。

 冷たい空気が背中に触れたのも束の間、すぐに彼の大きな掌が剥き出しになった肌を覆う。火傷しそうなほど熱い掌が、背骨をなぞり、ゆっくりと肩甲骨を押し上げる。

「あ……っ、待って」

 廊下から漏れ入るわずかな光に照らされるのが恥ずかしくて身を捩ると、彼は「見るな」とでも言うように、私の目を片手で覆い隠した。

 視界が奪われたことで、残りの感覚が異常なほど鋭敏になる。

 布擦れの音。彼の深い呼吸。そして、私の肌に触れる彼の唇の感触。

 鎖骨から胸の谷間にかけて、熱い吐息とともに微かな痛みを伴う口づけが落とされる。ちゅっ、と皮膚を吸い上げられるたび、背筋に電流のような痺れが走った。

「んっ……そこ……」

 彼の手がドレスごと私を抱き寄せ、腰のラインを執拗に撫で上げる。

「結……っ、結……」

 耳元で何度も繰り返される私の名前。その声色は、切なく、どこか祈るようにすら聞こえた。

 求められているのは、自分だけだ。この熱も、この苦しさも、今だけは全部こちらへ向いている。

 その事実が、脳を甘く麻痺させていく。

 彼がスーツのズボンを緩める微かな衣擦れの音が聞こえ、私は両脚の間で彼の確かな熱意を感じた。

 ゆっくりと、しかし逃げ場のない力で、私たちの距離が完全にゼロになる。

「あっ……!」

 入り口を押し広げられる感覚に、思わず彼の肩に爪を立てた。

 痛いというより、身体の内側が彼で満たされていくという圧倒的な充実感が、恐怖を上回っていく。

「痛いか……?」

 額に汗を浮かべながらも、彼は動きを止めて私を気遣う。

「……大丈夫、です。もっと……」

 自分から腰を浮かせ、彼を迎え入れるように動く。彼が低く呻き、深く繋がった。

「あぁっ……!」

 頭の芯が白く弾ける。

 ゆっくりと繰り返される波に、摩擦と熱が頂点へと昇り詰めていく。

「結……愛してる……っ」

 耳元で囁かれたその言葉が、耳から脳髄へと直接響き渡る。

 七年間、ずっと聞きたかった言葉。

 同じ言葉を返したかったが、激しい絶頂の波に呑み込まれ、声にならなかった。私はただ玲司にすがりつき、その背中を強く抱きしめた。

 彼の熱い吐息と、汗の匂いが混ざり合った口づけを繰り返しながら、私たちは深い夜の底へと沈んでいった。

 薄暗い部屋の中。

 シトラスの香りに包まれながら、私は彼のシャツの袖を強く握りしめたまま、いつ眠りに落ちたのか分からなかった。

 翌朝。

 目を覚ました時、隣にはすでに誰もいなかった。

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