INICIAR SESIÓN大柄な彼の体重を支えきれるはずもなく、私たちはもつれ合うようにして部屋の奥、分厚い絨毯の上へと倒れ込んだ。
ドスッ、という鈍い衝撃が背中を打つ。 「……っ、大丈夫ですか」 声をかけても返事はない。ドレスの生地越しに伝わってくる彼の鼓動が、あまりにも速く、不規則に打っている。 スーツの背中に腕を回すと、高級な布地が彼の汗でぐっしょりと湿り気を帯びていた。 首筋に埋もれるように倒れ込んだ彼の顔から、燃えるような吐息が絶え間なく吹きかかってくる。シトラスの香水と、汗と、微かなアルコール。 やはり、ただの酔いではない。異常な熱だ。 「しっかりしてください……っ」 どうにか身体をずらし、彼の頭を絨毯に下ろす。ネクタイを完全に外し、シャツのボタンをいくつか開けて風を通した。 近くにあったキャビネットから清潔なリネンタオルを見つけ出し、洗面台の水で濡らして彼の額の汗を拭う。 苦しげに眉をひそめながら、彼は時折、小さく呻き声を上げた。 その顔を見つめながら、ひたすら冷たいタオルを当て続ける。 一時間。あるいは、もっと経っただろうか。 壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、静かな部屋に響き続けていた。 やがて、火のようだった彼の体温が少しずつ下がり、荒かった呼吸が静かなものへと変わっていく。 不意に、掠れた声が名前を呼んだ。 ハッとして顔を上げると、色素の薄い瞳が、静かに私を見つめ返していた。 先ほどまでの焦点の合わない濁りは消え、受け答えのできる理知的な光が戻っている。少なくとも、さっきまでのように意識が揺らいだ状態ではなさそうだった。 「気がつきましたか……? 気分は」 「……ああ。最悪だが、頭ははっきりしている」 彼はゆっくりと上体を起こし、乱れたシャツの胸元を片手で押さえた。 そして、私の顔をじっと見つめる。 「どうして帰らなかった。……俺がどんな状態だったか、わかっていたはずだ」 その声は低く、自分自身を責めるような響きを帯びていた。 「放っておけません。それに……帰りたくなかったから」 素直な言葉が口をついて出た。 彼の瞳が、微かに揺れる。 「明日には、ここを発つ。君に触れる資格なんて、俺にはない」 明日にはいなくなる。その言葉に、握りかけた手を一度引いた。今ここで気持ちを告げても、遠くへ行く彼を引き止められるわけではない。 それでも、何も言わずに見送れば、私はまた兄の隣で笑うだけの妹に戻ってしまう。庭で呼ばれた名前も、この人の目が揺れたことも、自分の思い込みだったと片づけて。 明日が怖くないわけではなかった。好きだと伝えないまま終わる方が、今は怖かった。 「明日、行ってしまうことは分かっています。でも、私……ずっと、あなたが好きでした」 震える手を伸ばし、彼のシャツの袖をきゅっと握りしめる。 その瞬間、玲司の呼吸が変わった。私の袖を見つめていた視線が上がり、さっきまでの拒絶が、その顔から消えた。 「……結」 何度も、確かめるように名前を呼ばれる。 ただそれだけで、目の前が滲み、涙がこぼれそうになった。 彼の手がゆっくりと伸びてきて、私の髪に触れる。 指先が、綺麗に結い上げられた髪の中から、一本のピンを探し当てた。 彼がずっと持っていた、あの星型のヘアピン。 カチャリ、と小さな金属音がしてピンが外されると同時に、まとめていた髪がふわりと肩に崩れ落ちた。 「……ずっと、君だけを」 途切れ途切れの囁きとともに、彼の大きな掌が私の頬を包み込む。 さっきまでの異常な熱とは違う、彼自身の確かな体温。 優しく、けれどもう二度と離さないと宣言するかのような、深く甘い口づけが降ってきた。 目を閉じる。 彼に触れられているという事実が、ただひたすらに幸福だった。 彼の指先が、ドレスの背中にあるジッパーをゆっくりと引き下ろす。ジリジリという金属音が、静寂に満ちた部屋にやけに大きく響いた。 冷たい空気が背中に触れたのも束の間、すぐに彼の大きな掌が剥き出しになった肌を覆う。火傷しそうなほど熱い掌が、背骨をなぞり、ゆっくりと肩甲骨を押し上げる。 「あ……っ、待って」 廊下から漏れ入るわずかな光に照らされるのが恥ずかしくて身を捩ると、彼は「見るな」とでも言うように、私の目を片手で覆い隠した。 視界が奪われたことで、残りの感覚が異常なほど鋭敏になる。 布擦れの音。彼の深い呼吸。そして、私の肌に触れる彼の唇の感触。 鎖骨から胸の谷間にかけて、熱い吐息とともに微かな痛みを伴う口づけが落とされる。ちゅっ、と皮膚を吸い上げられるたび、背筋に電流のような痺れが走った。 「んっ……そこ……」 彼の手がドレスごと私を抱き寄せ、腰のラインを執拗に撫で上げる。 「結……っ、結……」 耳元で何度も繰り返される私の名前。その声色は、切なく、どこか祈るようにすら聞こえた。 求められているのは、自分だけだ。この熱も、この苦しさも、今だけは全部こちらへ向いている。 その事実が、脳を甘く麻痺させていく。 彼がスーツのズボンを緩める微かな衣擦れの音が聞こえ、私は両脚の間で彼の確かな熱意を感じた。 ゆっくりと、しかし逃げ場のない力で、私たちの距離が完全にゼロになる。 「あっ……!」 入り口を押し広げられる感覚に、思わず彼の肩に爪を立てた。 痛いというより、身体の内側が彼で満たされていくという圧倒的な充実感が、恐怖を上回っていく。 「痛いか……?」 額に汗を浮かべながらも、彼は動きを止めて私を気遣う。 「……大丈夫、です。もっと……」 自分から腰を浮かせ、彼を迎え入れるように動く。彼が低く呻き、深く繋がった。 「あぁっ……!」 頭の芯が白く弾ける。 ゆっくりと繰り返される波に、摩擦と熱が頂点へと昇り詰めていく。 「結……愛してる……っ」 耳元で囁かれたその言葉が、耳から脳髄へと直接響き渡る。 七年間、ずっと聞きたかった言葉。 同じ言葉を返したかったが、激しい絶頂の波に呑み込まれ、声にならなかった。私はただ玲司にすがりつき、その背中を強く抱きしめた。 彼の熱い吐息と、汗の匂いが混ざり合った口づけを繰り返しながら、私たちは深い夜の底へと沈んでいった。◇
薄暗い部屋の中。
シトラスの香りに包まれながら、私は彼のシャツの袖を強く握りしめたまま、いつ眠りに落ちたのか分からなかった。 翌朝。 目を覚ました時、隣にはすでに誰もいなかった。兄の直哉が嵐のように去っていった翌日の夕方、ペントハウスの静寂を破ったのは、いつもとはどこか違う陽菜の足音だった。 ドタバタと廊下を走ってくるスリッパの音。いつもなら玄関で靴を脱ぐと同時に「ママ、お腹すいたー!」と叫ぶはずの陽菜が、今日は息を弾ませながら、両手で抱え込むようにして大きな段ボール箱を運んできていた。 「ママ! ママ、大変!」 キッチンで夕食の野菜を刻んでいた私は、包丁を置いて慌てて振り向いた。 「ちょっと陽菜、どうしたのそんな大きな箱持っちゃって。どこで拾ってきたの?」 見慣れない青いロゴの入ったスーパーの段ボール箱は、角が少し潰れ、側面に泥の筋がついていた。陽菜の制服のスカートの裾にも、黒っぽい土の汚れがベタリと付着している。 「あのね、学校の帰りの公園のね、ベンチの後ろに落ちてたの! 雨が降ってたから、箱ごと持ってきちゃった!」 「えっ……公園に?」 私が眉をひそめて近づくと、段ボールの隙間から、ひどく掠れた小さな声が漏れ聞こえてきた。 ――ミー、ミー。 蚊の泣くような、弱々しい音。 私は息を呑み、陽菜が床に置いた段ボールの蓋をそっと開いた。 汚れた古いタオルの端っこに、手のひらにすっぽり収まってしまいそうなほど小さなかたまりが丸まっていた。濡れた体は痩せ細り、薄い茶色の毛が束になって皮膚にへばりついている。こちらを見上げる小さな顔には、目やにで半分塞がった瞳があった。 「……子猫?」 「うん。ずっと泣いてたの。誰も助けてくれないから、陽菜が抱っこしてきたの」 陽菜は自分のことのように得意げな顔をしつつも、どこか不安そうに私の顔色を伺っていた。私が「捨ててきなさい」と言うのではないかと身構えているのが、ぎゅっと握られた小さな拳から伝わってくる。 私は胸がキュッと締め付けられるのを感じた。 かつて、たった一人で部屋の隅で丸まり、どうしようもない不安に震えていた頃の自分たちの姿が、一瞬だけ目の前の小さな毛玉と重なったのだ。 あの頃の私は、誰かに拾ってほしいと思っていたわけではない。ただ、陽菜だけは濡らしたくない、寒い思いをさせたくないと、そればかり考えていた。だから陽菜が「誰も助けてくれないから」と言った時、その言葉を簡単には退けられなかった。 「……ずいぶん、小さいわね。風邪ひいてるみた
その夜、陽菜が眠ると、玲司はダイニングの椅子を引いた。テーブルへ置かれた書類は薄かった。表紙に印刷された御堂の名を見て、私は向かいに座る前に手を止めた。 「婚約解消への返答が来た。弁護士から、条件案が届いている」 兄さんが今日、玄関から出ていった姿がまだ目に残っていた。そのすぐ後で、別の家の名前がここへ入ってくる。私は椅子を引き、膝の上で手を重ねた。 「……通知を出しただけでは、終わらないんですね」 「提携の整理と、公表文の確認は残る。だが、結婚するという返事をするつもりはない」 玲司は私にも見えるよう、書類の向きを変えた。並ぶ項目のうち、一つだけ長かった。両家に関係する過去の調査を中止し、これまでに得た資料を対外的に使用しないこと。 私は読み終えたところへ指を置いた。 「これ……陽菜の検査のことも、入るんですか」 「そこまで含められる文面だ」 「あの紙を作った人が誰か、分からないままにするの?」 思ったより鋭い声が出た。寝室の方を見てから、私は声を落とした。陽菜は今夜も、使いかけの色鉛筆を一本ずつ箱へ戻していた。その娘の知らないところで、検体の代わりに、今度は書類一枚が暮らしの行く先を決めようとしている。 「その条件は飲まない」 玲司の返事は短かった。すぐに信じて安心してしまうのが怖くて、私は紙から目を上げられなかった。 「通知は出した、だから待てと言われるだけでは困ります。進まない理由があるなら、私にも話してください」 「……分かった」 玲司は私の返事を待ってから手を引いた。書類に並ぶ条件の一つひとつを、今度は私にも見せてくれている。それでも、すべてが決まってから知らされた七年前のことは、簡単には消えなかった。 玲司は調査中止の項目に線を引いた。万年筆の先が紙を擦る音が、静かな部屋でやけにはっきり聞こえた。 「公表の時は、陽菜の名前を出すんですか」 「出さない。君の名も、必要なら伏せる」 私は首を振った。 「私は、どう見られるかをあなたと話せます。でも、陽菜は学校へ行くんです。記事を消した後も、あの子はあの校門を通っているの」 玲司の指が止まった。書類を引き寄せる代わりに、彼は私の方へ身体を向けた。 「そこは、君と確認する」 「学校へ説明する時も、同じことを話せるようにしてください。私だけが、何が
リビングの隅で、陽菜がトテトテと歩み寄ってきた。 二人の大人が怒鳴り合い、母親が泣いている状況に、陽菜は怯える様子もなく、ただ不機嫌そうに直哉のズボンの裾を引っ張った。 「ねえ、おじさん」 直哉がハッとして見下ろす。 「ママをいじめないで」 小さな、けれど強い抗議。 直哉は膝を折り、陽菜の顔をもう一度見た。 自分と私の血を引く、妹の娘。 直哉の険しい目元が、ほんの少しだけ柔らかく弛んだ。 「……いじめてねえよ。大人のお話しだ」 「うそ。おじさん、すっごくこわい顔してた」 「……悪かったな。脅かすつもりはなかった」 直哉はぶっきらぼうに謝ると、陽菜の跳ねた髪を、ゴツゴツとした大きな手でくしゃっと撫でた。 陽菜は「あー、せっかく直したのに」と文句を言ったが、直哉の手を振り払おうとはしなかった。 直哉はゆっくりと立ち上がり、背中のジャケットを引っ張り直した。 「……今日は、帰る」 直哉は私を見ずに言った。 「陽菜。今度、おじちゃんの工房へ来るか? 綺麗な布がいっぱいあるぞ」 陽菜は私の顔をチラリと見てから、小さく頷いた。 「うん。いく」 「そうか」 直哉は少しだけ口角を上げると、玄関へと向かって歩き出した。 私が後を追おうとしたが、直哉は手でそれを制した。 「追ってくんな。頭冷やす」 直哉は玄関で靴を履き、扉を開ける直前で、一度だけ振り返った。 彼の視線は、私を通り越し、奥に立つ玲司へと向けられた。 「高遠」 「……なんだ」 「お前を許したわけじゃない。絶対に許さない」 直哉の瞳に、鋭い光が宿る。 「でも……陽菜の父親がお前だっていうなら、逃げんじゃねえぞ。これ以上結と陽菜を泣かせたら、今度こそ殺すからな」 玲司は逃げずに、直哉の視線を正面から受け止めた。 「……ああ。誓う」 直哉は短く鼻を鳴らすと、私へ視線を移した。 「父さんも……お前に会いたがってる。体調が良い日に、一度実家へ来い」 それだけ言い残し、重い防音扉がバタンと音を立てて閉まった。 玄関に残されたシトラスの香りと、直哉が残していった重い課題。 私は壁に背中を預け、ゆっくりとその場にへたり込んだ。 廊下の向こうでエレベーターの到着音が鳴り、やがて聞こえなくなった。私はしばらく、壁から背を離
私が叫び、二人の間に割り込もうとした。 だが、直哉の腕は鉄の棒のように固く、玲司の襟元を握りつぶしそうな勢いで力を込めている。 「お前、どんな面下げてここに立ってんだよ!」 直哉の目の縁が、血走り、赤く滲んでいた。 「親友の妹に手を出して、捨てて、うちの親父の会社を潰しておいて……今さら父親面して一緒に暮らしてんのか!? ふざけんなよ! 人間として終わってんだろ!」 「……俺を叩きたいなら、叩けばいい」 玲司が掠れた声で言った。 「言い訳はしない。七年前、俺が結を傷つけ、朝倉家を追い詰めたのは事実だ。どんな制裁でも受ける」 「制裁だと? 格好つけてんじゃねえよ!」 直哉が玲司の胸元を強く揺さぶった。 「お前がぶん殴られたところで、結の七年間が戻るかよ! 結が一人で産んで、育てるために頭下げて回った時間が、お前の血反吐一つで返せると思ってんのか!」 直哉の胸の底からの叫び。 最後の言葉だけが、わずかに震えた。 「違うの、兄さん!」 私が直哉の腕を強く引っ張った。 「玲司さんだけのせいじゃないの! 私が……私が何も言わずに逃げたからなの!」 直哉の手が一瞬、緩んだ。 直哉は驚いたように顔を巡らせ、私を見た。 「何言ってんだ、お前……」 「私、妊娠したことを兄さんにも、父さんにも言わなかったの! 誰にも言わずに、一人で家を出たの!」 私の目から、溢れ出た涙がこぼれ落ちる。 「だって……言えるわけないじゃない! 実家があんな状態の時に『親友の子を妊娠しました』なんて言ったら、家がもっとぐちゃぐちゃになると思った! だから私は自分で消えることを選んだの!」 「玲司さんを庇ってるんじゃないわ! でも、兄さんが玲司さんだけを責めるのは違う! 私だって、家族を捨てて逃げた卑怯者なのよ!」 私の叫びが、三人の間に重く落ちた。 直哉の手から完全に力が抜け、玲司の襟元が解放された。 玲司は壁にもたれかかったまま、小さく咳き込み、胸元を整えた。 直哉は自分の大きな掌を見つめ、それから私を見た。 「……お前も、ひどい奴だな」 直哉の声は、先ほどよりずっと低かった。 「七年間……生きているのか死んでいるのかも分からなくて。父さんが倒れて、工房の機械を叩き売って、借金の取り立てに頭下げてる間……お前は一人で
「……直哉」 玲司が静かに、だが重く名前を呼んだ。 直哉はその声を聞いていないかのように、ただゆっくりと陽菜の前へ歩み寄った。 巨体が近づいてくる威圧感に、陽菜は少しだけ身を引いたが、逃げ出しはしなかった。箱をぎゅっと抱きしめ、首を傾げて直哉を見上げている。 「……名前、なんていうんだ」 直哉の声が、さっきまでの荒々しさを失い、擦り切れたように低くなっていた。 「朝倉ひな。七歳」 陽菜がハキハキと答える。 「ひな……」 直哉は膝を折り、陽菜と同じ目線まで頭を下げた。 至近距離でその顔を見つめる。陽菜の瞳に映る自分の顔を確かめるように、じっと凝視していた。 そして、直哉の指が、行き場を失ったようにゆっくり握られていった。 「結」 直哉は陽菜から目を逸らさないまま、後ろに立つ私へ問いかけた。 「この子……七歳か」 「……ええ」 「七年前の……あの秋の後の、子か」 私は何も答えなかった。ただ、胸の前で両手を固く握りしめた。その沈黙が、何よりの肯定だった。 兄さんの顔からさっと色が失われていくのを見て、私は胸の前で組んだ手に力を込めた。いつかは知られると分かっていた。けれど、陽菜の顔を見ただけで七年前へ辿り着くほど、兄さんは玲司をよく知っていたのだ。その事実が、今さら「兄の親友」という関係の重さを突きつけてきた。 直哉はゆっくりと立ち上がった。 彼の顔から、感情が失われていく。怒りでも、悲しみでもない、ただ巨大な衝撃に脳を殴られたような無の表情。 直哉は振り向き、静かにたたずむ玲司を見た。 「……おい」 「ああ」 「待て……嘘だろ」 直哉の言葉が、途切れ途切れにこぼれる。 「陽菜の瞳の色……お前と同じだ。髪の質も、耳の形も……」 直哉は自分の額を押さえ、ハッと短く息を吐いた。 「待てよ。七年前……お前、うちの会社を買い叩いて、婚約発表して、海外へ行っただろ? その前に、結と何があったんだよ」 直哉の声が、徐々に熱を帯びていく。 「なのに……なんで結のお腹に、お前の子供がいたんだよ」 「……」 「答えろよ! 高遠!」 直哉の叫びが、広大なリビングに響き渡った。 玲司は逃げなかった。直哉から目を逸らさず、逃げ場のない事実を、ただ短い言葉で口にした。 「……俺の子供だ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。 直哉の顎がピクリと跳ねた。彼は妹の言葉に答える代わりに、視線をゆっくりと玲司へ向けた。 「高遠。……やっぱり、ここに囲い込んでたのか」 「囲い込んではいない。安全のために、俺の管理下の部屋へ来てもらっただけだ」 玲司は静かに答えた。背筋だけが、普段より硬く伸びていた。 「安全? どの口が言ってんだ」 直哉が鼻で小さく笑った。その響きには、冷え切った蔑みが混じっている。 「お前らのくだらないゴシップに巻き込まれて、結とガキの写真がネットに流れてんだぞ。これが安全か?」 直哉は土足のまま踏み込みそうな勢いで、靴を乱暴に脱ぎ捨てると、大理石の廊下を歩いてリビングへ入ってきた。 広大な部屋を見回し、黒を基調とした高級家具や壁一面のガラス窓を一瞥すると、ますます不機嫌そうに眉根を寄せる。 「あいかわらず良い暮らしだな。俺たちが破産寸前で駆けずり回ってる間も、お前はこんな高層ビルから見下ろしてたわけだ」 「兄さん、やめて」 私が思わず前に出ると、直哉は鋭い眼差しで私を射抜いた。 「やめろ? 七年間も黙って消えてたお前が、何言いに来たんだ? 父さんがどれだけ心配して……いや、どれだけお前を探したと思ってんだ」 「……ごめんなさい」 「謝って済むかよ。電話一本よこさねえで、いきなり有名人の隠し子騒動でニュースに出てくるとか、冗談じゃねえぞ」 直哉の怒りは、玲司だけでなく私にも等しく向けられていた。当然だった。彼にとってはこの七年間、倒れかけた家業を守り、父の看病をし、残された債務を処理し続けてきた苦闘の年月だったのだから。 「私も苦しかった」と言えば、少しは言い返せたのかもしれない。でも、それで兄さんの七年が軽くなるわけではない。陽菜を守るために消えたという自分なりの理由と、残された家族を傷つけたという事実は、同時に存在している。その二つを、もう片方の言い訳にしたくなかった。 私が言い返せずに俯いた時だった。 リビングの奥、主寝室へ続く廊下の角から、小さな足音が聞こえた。 「ママー、折り紙のハサミどこー?」 箱を両手に抱えた陽菜が、ひょっこりと顔を出した。 寝癖で右側の髪がピョンと跳ねたままの小さな少女。 その声に、直哉の言葉が途切れた。 直哉の視線が、廊下の端